「………手塚、不二と喧嘩中、とか?」
「…………いや。」
心当たりは、とりあえず、ない。
(おはよう、手塚クン…か。)
なんでもないような優しい不二の声が、逆に手塚と大石を戦慄させた。
他人事ながらも大石は胃がキリキリするのか、腹に手を当てている。
「しかし…」
「しかし?」
「………不二の言葉を借りれば、俺はとんでもない堅物の超ウルトラ鈍感男、らしいからな。自分でも気がつかないうちになにか不二の気に障るようなことをしたのかもしれん。」
「…………っぷ」
「何がおかしい?」
「いや、手塚が超とかウルトラとかそんな言葉を使うのがおかしくって。ああ、いや、ごめん。今は笑ってる場合じゃないよな。英ニに聞いてみるよ。何がお姫様のご機嫌を損ねたのか。」
「……お姫様とか言うと、アイツ怒るぞ?」
「ははっ。あいつ見てくれは美人だけど、怒ったら魔王だよな。」
「怖いことを言うな…。」
だが、紛れも無い事実だった。
結局あれから大石から何の報告も得られないまま時は過ぎ、気がつけば放課後になっていた。
朝の不二の他愛無い一言が呪縛のように脳に焼き付いて、手塚は今日一日を上の空で過ごさなければならなかった。授業中も教師の一言は右耳から左耳へ抜けて行く。国語の時間、不意に指名されて読む場所がわからなかった。数学の時間では、簡単な計算ミスにつぐ計算ミスが重なって、式があっているのにも関わらず、一向に問の答えが合わなかったり、掃除のバケツをひっくり返したり…散々な一日だ。
(………もしこれが)
手塚は自分の何が不二を傷つけ、怒らせてしまったのかはわからない。しかしこれが不二の怒りの報復であるというならば、なんて残虐な行為なのだろうと手塚は思った。
(思考を支配されることは、こんなにも辛く、苦しい。)
早く楽になりたい、と切に思った時、廊下の向こうから不二が一人、歩いてきた。
自然と体が身構える。
「手塚、一緒に帰ろうよ。」
笑顔の相手に、一瞬力が抜けた。呼び方も、他人行儀な「手塚君」からいつも通りの「手塚」に戻っている。…いや、駄目だ気を抜いては。相手は不二だ。心理戦は、奴の十八番なのだ。人畜無害な顔をして、これからジワジワ止めを刺すつもりなのかもしれない。
(会話の主導権を渡しては、駄目だ。腹を探り合ったところで勝てるわけがない。口では適わないのだから…)
三年間一緒だった。相手の手の内は熟知しているつもりだ。追い詰められた苦い過去がわんさかある。
単刀直入に手塚は切り出した。
不二にヘタな小細工は通用しない。むしろねじれにねじれて、最終的にはとんでもないことになるのが落ちなのだ。
「………その、朝の件は…」
「へ?朝?」
不二はこちらが驚くほど、キョトンとしている。いや駄目だ、騙されては。笑顔の仮面に騙されるな。見かけは天使でも、この肉体に宿る心は、犬も喰わない。
「その…すまなかった…。俺の何がお前の機嫌を損ねたのかは、知らん…。しかし、ああいう風にされても俺は困るだけだ。率直な言葉で言ってもらえないと、俺にはわからないんだ。だから…」
「あ、の、さ」
不二の眉間に皴が寄る。けれども口元の笑みは崩れない。彼はいつ何時だって、微笑みを絶やしたりはしないのだ。
「僕、手塚が何のこと言ってるのかちっともわからないよ。朝、僕が君に何をしたっていうの?おはよって挨拶しただけじゃない?立ち止まってゆっくり君と教室まで並んで歩って行かなきゃいけなかったの?あのね今日僕は日直で、急いでたんだよ、あの時は。」
「し、しかし…」
「しかしもかかしもないよ。だいたい今日は皆おかしいんだよ。英ニだってさ、何怒ってるの?とかしつこく聞いてくるし。僕、怒ってなんかいやしないのに、意味がわからないよ。大石だってさー」
話し出した途端、今日一日の鬱憤が噴出してきたのか、不二の頬は段々膨れていった。
「し、しかしだな…お前、今朝俺のこと、“手塚君”と呼んだだろう?」
「へ?僕が?」
不二が目を見開く。寝耳に水、といった顔をして。
「僕、朝そんなこと言った?」
「言った。」
「本当に?」
「ああ。だから…」
「だから僕が何かに腹を立てて、他人ごっこをはじめたんだって思ったの?」
「ああ…。」
「ぶ」
不二が噴出した。クスクス、と笑いはじめる。小さかった笑いが次第に大きくなり腹を抱えての大笑いになった。
「そ、そんなに笑うな。」
「だって!だって!ぶっ…おかしったら…」
「不二!」
「ごめんごめ…っぷ」
ツボに入ったらしい不二は目に涙をためて笑い転げている。
(ひょっとして……いや、ひょっとしなくとも、何もなかったのか?)
手塚の肩が急に軽くなった。今日一日を返して欲しい…と切実に思う。
「………もうあえて聞くまでもないが、ひょっとしなくてもこの一件は、俺の早とちりだったのか?」
「うん。」
残酷にも不二は即答で、頷いた。
「ごめんね、手塚。そんな顔しないでよ。」
はたして今俺はどんな顔をしているのだろうと手塚は考えた。不二を怒らせてしまった時はいつも緊張する。不二は気まぐれで、いつ何時何が地雷原になるかわからない。見かけは百合の花…しかし実際は歩く核弾頭のような男なのだ。神経がささくれだってイライラしていると、微笑みを絶やさぬまま平気で人に当たるし、ズケズケと手塚も知らないような卑猥な言葉を乱雑に使って、罵倒したりするのだ。
不二が怒っていなかったということに拍子抜けした安堵の気持ちと、だったら今日一日の心労は一体なんだったのだというやりきれない思いが複雑に、手塚の中で絡み合っている。
「そもそもお前が紛らわしいことを言うからだな…」
「うん。ごめんね。僕、まったく無意識だったんだけど…でも心当たりはあるんだ。」
「心当たり?」
やはり何か気に障ることでもあったのか、と手塚の心は身構えた。
「うん。ああ、でも別にたいしたことじゃないんだよ。あのね、最近よく一年生の頃の夢を見るんだ。」
「夢…?」
「そう。僕と君が出会ったばかりの頃の夢だよ。君は僕を不二君と呼んで、僕は君を手塚君と呼ぶんだ。まだお互いのことを何も知らないはずなのに、僕はすでに君に惹かれはじめているんだ。君には何かがある、ってね。直感でそう感じているんだよ。で、無意識にずっと君を目で追ってる…。懐かしくて、心地よくて、儚い夢さ。」
「不二…」
「もうすぐ卒業だから…きっと恋しいんだと思う、あの頃が。もう1度戻りたいと思っているのかもしれない。だって…だって…君はもうすぐいなくなってしまうから…。僕の視線の届かない遠いところに行ってしまうから…。時間を巻き戻したいって…無意識に思っているのかもしれない。」
不二は誰よりも白い手を手塚の手に重ねて、指を絡めた。
まだ学校だったけれど、手塚はこの手を振りほどくことができなかった。
できることならば、いつまでも、永遠に、この手を離したくないと思った。
「ねぇ、手塚君。君、本当は左利きなんでしょ?」
「………どうしてわかったんだい、不二君?」
「そんなことずっと見ていれば、わかることなんだよ、手塚君。先輩相手に気を遣っているのかもしれないけど、辞めたほうがいいよ。君のその優しさはね、驕りって言うんだ。自意識過剰って言葉、知ってる?」
「…………その言葉、そっくりそのまま君に返すよ。君だって、本気を出したことないくせに。いつもいつも手を抜いて、本気を出しているふりをしているだろう、不二君。君は人のことが言えるの?」
「………驚いた。どうしてわかったんだい?僕が本気なんかちっとも出しちゃいないって。」
「ずっと見ていれば、わかることだ。」
「ねぇ、手塚君、僕達どっちが強いのかな」
「僕もそのことがずっと気になってた。」
「試合…しようよ。先輩達とは内緒だよ。本気でやるんだ。僕も君も。」
「僕もずっとそうしたいと思ってた。」
思えばあの頃からずっと、思考の中枢には、君がいた。